ケータイ刑事銭形泪31話(2nd.18話)[裏ネタ編]PART 7 [ケータイ刑事]
7回目となる「銭形泪・2nd.18話」(通算では31話)の「君の瞳はゲッツーコース! ~野球大会殺人事件」の「裏ネタ編」ですが、今回はこの物語に登場した人物名の「小松」「宇野」「野村」のモデルになった3人の元プロ野球選手について記します。
尚、約3年1ヶ月前になるBS-i(当時)のこの物語の再放送時に記した記した記事は「ここをクリック」してご覧下さい。
この物語の脚本は愛知県出身の佐藤二朗であることから、元ネタになっているのは中日ドラゴンズの選手である。しかも、この物語の制作された2004年当時の現役選手ではなく、それ以前に在籍していた選手である。二朗さんは1969年生まれであることから、1980年代に活躍した選手というのが印象に強いのでしょうね...(ちなみに、二朗さんは「銭形泪・1st.4話」で脚本家としてデビューを果たし、この物語が2本目の脚本である。この後は「銭形零の悪夢」(「零・2nd.8話」)の脚本を書いているが、分家しまいの物語では一度も脚本を書いていない。)
「小松」:モデルは1978年から1994年まで中日に在籍し、エースとして活躍した小松辰雄である。(引退後、1995年から1997年までは投手コーチとして在籍していた。)→この物語でも、モデルがモデルであるだけに、やはり投手でした。
1959年生まれで、高校時代(石川・星稜高校)には甲子園に出場している。ドラフト2位で指名されて、高卒で中日に入団。入団時の背番号は「34」。150km/hを超える速球を武器にして1年目から一軍の試合に登板している。(1年目は散々という成績でしたけど...)2年目からはリリーフで活躍する。4年目となる1981年には先発に転向し、12勝を上げる活躍をする。1983年には胴上げ投手にもなっている。1984年に背番号を中日のエースナンバーの「20」に変えて、エースとして活躍する。特に1985年は投手部門のタイトルを総なめにする活躍をしている。
17年のプロ生活の成績は、432試合に登板して、通算122勝102敗50セーブ。最多勝利2回、最優秀防御率1回、最優秀投手1回、沢村賞1回、ベストナイン1回。(最多奪三振も1回記録しているが、投じたタイトルではなかった。)
現在では何処の球場でも当たり前になっているスピードガンであるが、彼がデビューした当時はスピードガンが登場して間もない時期であった。そんな時に150km/h台の速球を投げたことから、「スピードガンの申し子」と言われた投手である。
1998年以降は解説者となっていて、ユニフォームから遠ざかっている。いずれは中日の監督として再びユニフォームを着るのではないか、と思われる。
中日のエースとして活躍しただけに、二朗さんにとってはエースと言ったら小松という所なんでしょうね。(「星野」でも良かったように思うが、「星野」にしてしまうと、チームに於いてはこちらが中心選手になってしまうということから、遠慮したという所ですかね...???)
「宇野」:モデルは1977年から1992年まで中日に、1993年と1994年にはロッテに在籍していた宇野勝である。スラッガーとして活躍し、本塁打王のタイトルを獲得したこともある強打者であり、内野手である。また、ホームランバッターの特徴である三振の多い打者でもあった。
1958年生まれで、高校時代(千葉・銚子商業)に甲子園に出場している。ドラフト3位で指名されて、高卒で中日に入団。入団時の背番号は「43」。入団1年目は形だけ一軍の試合に出場している。3年目の1979年から背番号が「7」になり、この年から大きく飛躍して、ショートのレギュラーを獲得する。また、ホームランを量産するようになり、1984年には本塁打王を獲得した。(阪神の掛布と同数で、タイトルを分け合った。)
何と言っても有名なのは「宇野ヘディング事件」である。1981/8/26の後楽園球場での巨人-中日戦で、2-0で中日リードの7回裏の巨人の攻撃で、巨人・山本功児の打った打球を捕球しようとしたショートを守っていた彼だったが、ナイター照明が目に入り、フライの目算を誤り、捕球できずに頭に当てたというものである。(ボールはレフトに転がり、二塁ランナーがホームイン、打った山本は本塁憤死となって同点にはならなかった。最終的には2-1で中日が勝った。)これが「プロ野球・珍プレー」として何度も取り上げられることになり、ヘディングの宇野の名前は全国区になった。また、「プロ野球・珍プレー」のブームを産んだ立役者(?)になった。尚、これによって「守備は下手」というイメージが定着してしまったが、特に上手いとは言えないにしても、下手とも言えない守備力であった。
中日で16年間、ロッテで2年間プレーして引退したが、中日在籍中の334本塁打は、中日在籍選手の球団記録であり、1985年の41本塁打は、ショートの選手が打ったシーズン本塁打記録となっている。
現役引退後、解説者となっていたが、2004年から2008年までは中日のコーチとしてユニフォームを着たが、2009年からは解説者に戻っている。
タイホーズの4番バッターとして、3打席連続ホームランを打ったということから、モデルの豪打ぶりをしっかりと発揮していたキャラでした。が、守備でヘディングをやってくれたら良かったのに...(尺の関係もあるが、42点も取られていたら、守備では珍プレーをしていたかも知れませんが...)
「野村」:モデルは(2009年時点で)楽天の監督を務めている野村克也監督である。選手としては1954年から1980年まで、その中で1970年から1977年は選手兼任監督として、その後、1990年から2001年までと2006年から現在までは監督として務めている。選手としては南海で23年、ロッテで1年、西武で2年プレーし、監督としては、選手兼任の南海、監督専任としてはヤクルト、阪神、楽天を率いている。
1935年生まれで、歴代監督の中でも最高齢記録を更新中でもある。京都・峰山高校からテスト生として南海に入団しする。が、殆ど出番無しという状態であった。3年目に正捕手となってからは頭角を現し、4年目に本塁打王のタイトルを取って、南海の中心選手となり、大活躍をする。現役時代のタイトル獲得数は多く、MVP5回、三冠王1回、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回と輝かしい成績を残した。また、通算記録も、出場試合数は歴代1位で、それ以外の打撃部門の成績も、本塁打数、安打数、打点は歴代2位である。また、監督としても、南海時代に1回、ヤクルト時代に4回の優勝に導いている。
選手時代から相手を研究することに力を入れて、データを収集し、それを元にした野球を行ったり、バッターに対して「ささやき戦術」というものを行ったり、ランナーがいるときにピッチャーにクイック・モーションで投げさせたりというように、プロ野球の世界に新しいものを導入した。監督になると、それが「ID野球」として更に発展させた。
1978年、ロッテに移籍した年に「生涯一捕手」という言葉を標榜し、これが流行語にもなり、「野球でキャッチャーと言うと野村」というのは不動のものになった。
ということで、ベンゴーズの野村が選手兼任監督であり、キャッチャーであり、年配であり、ささやき戦術を使ったり、「ID野球」と口にしたりしたのも、全てモデルの通りである。→流石に二朗さんも、小松や宇野が活躍した当時の中日の正捕手である木俣、中尾という名前ではなく、中日には一切関係していない「野村」を使っていました。(ちなみに、木俣は、記録面では野村に次いで、キャッチャーとしては歴代2位という記録をいくつか残している選手であり、セ・リーグの捕手記録部門では歴代1位というものもある選手である。)
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