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ケータイ刑事銭形零22話(2nd.9話)[裏ネタ編]PART 3 [ケータイ刑事]

銭形零」の第22話(2nd.9話)「ケータイ刑事百回記念特別企画・ウマと呼ばれた男! ~織田信長殺人事件(前編)」の「裏ネタ編」の2回目の増補となる今回は、この物語に登場した歴史上の人物から、「木下藤吉郎秀吉」について、「明智光秀」について、「松平元康」について、そして「ねね」について記します。尚、「松平元康」は「・4話[裏ネタ編]PART 2」で「松平家康」として、「ねね」は「・4話[裏ネタ編]PART 2」で「木下ねね」として記したものをベースとして、それぞれ加筆しました。

また、この物語について過去に記した記事(BS-i(当時)の再放送時に記した[改訂版])は「ここをクリック」してご覧下さい。(この物語についての過去に記した裏ネタ編は2008/4/24付です。)

木下藤吉郎秀吉」:日本人であれば誰もが知っている戦国時代の武将の一人であり、織田信長、徳川家康と共に、戦国時代の三英傑の一人として知られている武将である。また、信長の後を受けて、天下統一をした人物でもある。同時に、百姓の子供から出世して、天下人にまで登り詰めたことから、「戦国一の出世頭」としても知られている。

生まれは天文6年(1537年)であって、信長よりも3歳年下、家康よりは6歳年上である。また、没したのは慶長3年(1598年)である。後の羽柴秀吉であり、豊臣秀吉である。尚、生まれたときの鯰江は「木下藤吉郎」であり、「羽柴秀吉」と改めたのは1573年頃とされている。(「豊臣秀吉」と改めたのは1586年である。)→桶狭間の戦いは1560年であるため、当時の名前は「木下藤吉郎」である。

生まれは半農半兵の家の木下家で、百姓として生まれた。当初は今川家に仕えたが、出奔した後に織田信長に仕官して頭角を表すようになり、信長の元で出世していくことになる。そして1582年に本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、「中国大返し」と呼ばれる早業で引き返し、山崎の戦いで光秀を破る。更に、織田家の信長後継争いで、主家や他の家臣を制して信長の後継の地位を得た。実験を握ると、大坂城を拠点にして、関白・太政大臣に就任し、豊臣姓を賜って、日本全国の大名を従える天下統一を果たした。

政策としては、太閤検地と刀狩が画期的とされていて、これによって中世の封建社会から近世の封建社会への転換を成し遂げたとされている。また、二度にわたって行った朝鮮出兵は、結果的には最終目標を達成できなかったことから失敗とされていて、2度目の出兵となる慶長の役の最中に没した。

明智光秀」:戦国時代の武将で、織田信長に仕えたが、本能寺の変で信長を倒したことで知られている。また、それから13日後に羽柴秀吉に敗れ、世に三日天下と言われている。

生まれは1528年とされているが、詳しくは分かっていない。(この年の生まれだと、信長よりも6歳年上ということになる。)没したのは山崎の合戦で敗北し、坂本への逃走中に山科で農民に殺されたとされている。(1582年である。)→この物語に登場した信長、藤吉郎、ねね、元康の中では最も年長者であるのだが、キャスティングでは最も若いように見えますが...

清和源氏の血筋で、通称は「十兵衛」である。また、細川忠興の正室となった細川ガラシャの父でもある。美濃の出身で、最初は斎藤道三に仕えたが、1556年の長良川の戦い(道三と義龍の争い)で一族が離散し、若狭武田氏を頼り、朝倉氏に仕える。そして足利義昭と接触することになり、これが信長の上洛に繋がることになったとされている。以後、信長に仕え、側近として登用される。その後、坂本城の城主となり、周辺の敵を攻め、更に丹波国の攻略(黒井城の戦い)を担い、平定した。そして丹波の国を与えられた。そして、重要な役割を信長から与えられたが、1582年、秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられ、中国に向かうが、その途上で「敵は本能寺にあり」と言って、本能寺にいた信長を急襲し、主君を討った。→そのため「謀反人」として名前を残すことになった。

その後、天下を狙うも、十分な協力を得られず、更に秀吉が余りにも早く戻って来たことで、秀吉と戦いことになり、兵力の差、味方する者も少なく、秀吉の前に敗れ去った。

松平元康」:後の徳川家康(江戸幕府を開いたことで知られている。)である。織田信長、豊臣秀吉と共に戦国時代の三英傑の一人として知られている武将である。生まれは1543年で、松平氏第8代当主・松平広忠の嫡男として生まれる。(この物語に登場した戦国武将である信長、秀吉、光秀の中では最も年下である。)また、没したのは1616年である。幼名は竹千代、その後、松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康、というように名前が変わっていった。この物語では松平元康という名前になっているが、桶狭間の戦い(1560年)の時点ではこの名前であって、史実にも合致している。

6歳の時に、今川氏への人質として送られることになったが、家臣の裏切りがあって、一時は織田氏に送られた。そしてこの時に信長と出会い、後々まで続く強力な同盟関係が構築されることになった。→家臣の裏切りが無ければ、信長と出会うこともなく、歴史が変わっていたでしょうね。

今川氏の元で元服して松平元信と名乗り、やがて元康に改名する。そして頭角を現し、桶狭間の戦いで今川義元が討たれた際、尾張・大高城を攻略中であった元康は撤退して岡崎城に入り、三河国の支配権回復を志して、今川氏から独立する。1562年に清洲同盟を信長と結び、1563年に「松平家康」と改名する。(「元康」の「元」は今川義元の「元」からきていたことから改名したとされている。)その後、三河の国を統一し、1566年に、朝廷から従五位下と三河守の叙任を受けて、「松平」から「徳川」に改姓した。尚、この改姓によって、新田氏系統の清和源氏であることも公認させた。(征夷大将軍になる下地が出来ることになった。)

信長没後は、秀吉との間で対立が深まっていき、小牧・長久手の戦いで、戦術的には勝利するも、秀吉に臣従することとなる。1590年に小田原攻めで北条氏を滅ぼすと、秀吉から関東への領地替えを命じられ、関東という広い領地を得ることになった。(但し、この時の江戸は、小さな漁村の一つであった。)そして秀吉政権では五大老の筆頭となった。

秀吉没後、1600年に関ヶ原の戦いで勝利し、その覇権を決定づける。1603年に、後陽成天皇から征夷大将軍に任命されて、江戸城に幕府(江戸幕府または徳川幕府)を開いた。征夷大将軍の地位は1605年に息子の秀忠に譲ったため、その地位にいた期間は短いが、駿河国駿府に隠居したものの、大御所様として大きな影響力を持っていた。

1614年の大坂冬の陣、1615年の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、幕府による統治体制を絶対的な者とした。但し、家康については、大坂冬の陣、大坂夏の陣のいずれに於いても真田幸村には苦戦していて、その時に討たれているという説もある。(討たれたのは替え玉だったという説まである。)→この時討たれたという説では、以後の家康は替え玉だったとしている。

尚、家康は75歳で没したが、信長、秀吉よりも高齢であった。(現在、75歳で亡くなるというのは、日本人の平均よりも少し早いことになるが、当時としては長寿だったということになる。)

ねね」:豊臣秀吉の正室で、後に「北政所」と呼ばれる女性である。(「北政所」は本来は摂政や関白の正室のことを指すが、彼女があまりにも有名なため、彼女を指す固有名詞になっている。)また、後に出家して高台院湖月尼になった人物である。

1549年(1542年説、または1547年説もある。)の生まれであるため、秀吉よりは12歳年下である。(1542年生まれだし5歳年下、1547年生まれだと10歳年下になる。)(→1542年生まれだとすると違うが、1547年若しくは1549年生まれだったら、この物語に登場した歴史的人物の中では最年少ということになる。)また、亡くなったのは1624年である。(享年75、77、83という説があるが、青年に複数の説があることに対応してのことである。)

杉原(木下)家定の妹であって、秀吉と結婚した時は浅野長勝の養女となっていたので、現代風に旧姓で言うと、「杉原ねね」から「浅野ねね」となり、「木下ねね」になったということになる。

尚、名前は「ねね」とされているが、「おね」「祢(ね)」「寧(ねい)」という署名が残されていることから、「おね」と呼ばれることもあり、「ねい」と言うのが正しい名前とする説もある。

秀吉と結婚したのは1561年である。(1949年生まれだと12歳で結婚したことになるが、政略結婚ではなかったことと秀吉が当時は24歳だったことから、この辺りがねねが1540年代前半の生まれという説を生んでいることにもなっている。)その当時、秀吉は「木下藤吉郎」と名乗っていたので、この時点で「木下ねね」となる。(当時の藤吉郎は、まだ下っ端の一家臣であって、後に天下人になるとは誰も思っていないような時期である。よって、「玉の輿」と呼ばれるような結婚では無かった。逆に、ねねの方が身分が高く、藤吉郎の「逆玉」と言った方がよい結婚であった。また、戦国武将であれば政略結婚が一般的であったが、そういう結婚ではなく、恋愛結婚だったとされている。

秀吉が関白となって天下を握ると、従三位に叙せられて、「北政所」と称するようになる。が、これは殺生や関白の位にいる者の妻のことを「北政所」と言うことから来るものであった。で、関白の妻として、朝廷との交渉や人質として集められた諸大名の妻子を監督するなどの役割を担ったとされている。

秀吉の没後は淀殿(秀吉の側室、浅井茶々である。)と連携して秀頼の後見にあたる。1599年には大坂城を出て京都新城に移り、朝廷との交渉、豊国社や方広寺の運営や供養などを行うようになる。1603年に秀頼と千姫が結婚すると、落飾し、朝廷から院号を賜って「高台院湖月尼」と称し、京都東山に高台寺を建立し、そこで生涯を過ごすことになった。

 

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