ケータイ刑事銭形泪37話(2nd.24話・アナザーストーリー2話)[裏ネタ編]PART 5 [ケータイ刑事]
5回目となる「銭形泪・2nd.24話(通算では37話)」の「第三帝国からの挑戦状 ~アドルフ・ヒトラーを迎撃せよ!」の「裏ネタ編」ですが、今回はこの物語の劇中で、月経流巣が演説の際に口にした言葉から、「ベッケンバウアー」について、「ミハエル・シューマッハ」について、「ヨハン・セバスチャン・バッハ」について、「ジャーマンポテト」について、「ブンデスリーガー」について記します。それにしても、これがどうしてあの字幕の意味になるのか、言語学的には全く理解出来ません...ただ、「ドイツを代表するもの」ということでの繋がりはありますけど...
尚、約3年2ヶ月前のBS-i(当時)での再放送時に記した本編について記した記事(「改訂版」となります。)の前半は「ここをクリック」、後半は「ここをクリック」してご覧下さい。
「ベッケンバウアー」:西ドイツ・ミュンヘン出身の元サッカー選手であり、引退後は指導者として活躍、2006年のFIFAワールドカップ・ドイツ大会では組織委員長を務めた人物である。1945年生まれであり、少年時代からサッカーを始め、バイエルン・ミュンヘンのユースチームに入団する。その後、1964年に下部リーグでデビューする。1965年にはブンデスリーガに昇格、またこの年には西ドイツ代表としてもデビューしている。
選手時代に華々しい活躍をして、ブンデスリーガーだけでなく、UEFA欧州選手権、ワールドカップに出場して、いずれも優勝を経験している。1977年に西ドイツ代表を引退し、北米リーグに移籍して、そこでも優勝を経験している。その後、一時西ドイツに戻り、再びアメリカでプレーして、1983年に選手として引退した。
引退後、1984年に西ドイツ代表監督に就任し、1990年のワールドカップ・イタリア大会で監督として優勝を経験する。その後、フランスのマルセイユの監督に就任するが、1992年にはバイエルン・ミュンヘンの会長に就任、一時は代理監督も務め、リーグ優勝を経験する。1996年に ドイツサッカー協会副会長に就任し、2000年にワールドカップ・ドイツ大会組織委員会委員長に就任し、2006年のワールドカップ・ドイツ大会を成功させている。
兎に角、選手としてだけでなく監督としてもリーグだけでなくワールドカップなどの国際大会でも優勝するというように、輝かしいキャリアを持っている。
フルネームはFRANZ ANTON BECKENBAUER(フランツ・アントン・ベッケンバウアー)であり、オーストリア皇帝フランツ1世と同じファーストネームであることから、皇帝「DER KAISER」と呼ばれるようになった。
ドイツ・サッカー界では正に神様であるが、現在は世界のサッカー界でもその手腕を高く評価されている人物である。選手として、監督として、組織の指導者として、そのいずれに於いても輝かしい実績を残した人物ということで、サッカーの歴史に名前を残す人物である。
この物語の放送当時(2004/9/12)は、2006年のワールドカップ・ドイツ大会に向けて、大会組織委員長として活動していたことになる。
「ミハエル・シューマッハ」:MICHAEL SCHUMACHER、元F1ドライバーであり、7回のチャンピオン獲得をはじめ、歴代のF1ドライバーの記録では殆どが歴代1位となっているドライバーである。また、ドイツ人でドライバーズチャンピオンを獲得したことがあるのは彼のみである。
弟のラルフ・シューマッハも元F1ドライバーである。
1969年生まれで、幼少時にカートと出会い、カートのドライバーとなり、1984年と1985年のドイツ・ジュニア・カートチャンピオンになっている。その後、1987年にはドイツ・ヨーロッパ・カートチャンピオンとなり、F3に参戦することになる。1990年、ドイツF3王者となり、1991年7月、日本・菅生で開催された全日本F3000第6戦に参戦して2位となり、驚きを与えた。この年の残りもはF3000に参戦予定であったが、第11戦のベルギー・グランプリでF1に参戦する。(このレースは決勝進出するも0周リタイアで終わる。)しかし、次戦からのレギュラー・シートを獲得して、F1に常時参戦するようになる。
この後は2006年までF1に参戦し、1994年、1995年、2000年~2004年の7度のドライバーズチャンピオンを獲得したのを初として、数々の記録を残した。
引退した2007年以降はドライバーとしてレースに参戦していないが、何度か現役復帰を表明しつつも、それを断念するということが続いている。
彼が記録した歴代1位という記録は、通算記録に限っても、ドライバーズチャンピオン獲得回数(7回)、通算優勝回数(91回)、通算ポールポジション獲得回数(68回)、通算ファステストラップ獲得回数(76回)、通算ポールトゥウィン獲得回数(40回)、通算ハットトリック獲得回数(22回)、通算表彰台獲得回数(154回)、通算入賞回数(190回)、通算獲得ポイント(1369pt)、通算決勝完走回数(197回)である。また、通算決勝周回数の13908周は現在では2位となっているが、引退当時は歴代1位であった。(現在はルーベンス・バリチェロが歴代1位となっている。)
また、年間記録としても多くの記録を作っている。
彼のドライブは、何が起こっても冷静であり、性格であったことから「サイボーグ」(日本では「ターミネーター」)と呼ばれていた。歴史に残るF1ドライバーである。
「ヨハン・セバスチャン・バッハ」:JOHANN SEBASTIAN BACH、「音楽の父」とも呼ばれるドイツの生んだ18世紀に活躍した偉大な作曲家である。バッハ家は音楽一家であり、彼以外でも音楽の世界に名前を残した人物がいるため、彼のことを「大バッハ」と呼んだり、名前を略して「J.S.バッハ」と呼ばれることもある。
1685年生まれで、亡くなったのは1750年である。特に、ベートーベン、ブラームスと共に「ドイツの三大B」と呼ばれている。(→「命・11話」の音楽対決の課題曲が、バッハ、ベートーベン、と来て3曲目が「カルメン」になっていたが、何故ブラームスにしなかったのか、悔やまれるところである。)
彼は9歳の時に母を、10歳の時に父を亡くしているが、勉学に励み、1703年にヴァイマルの宮廷楽団に就職して、アルンシュタット新教会のオルガニストになり、音楽家としての道を進んでいくことになる。1708年にヴァイマルに移り、宮廷オルガニストとなる。そして多くのオルガン曲のさっきを句を行った。しかし、主家のお家騒動に巻き込まれ、投獄され、ヴァイマルを追放されることになる。
1717年にケーテンの宮廷楽長となり、幾多の名曲を生み出したのはこの時期である。1720年夏に妻が死去、翌年に宮廷歌手・アンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚し、有名な「アンナ・マクダレーナ・バッハのためのクラヴィーア曲集」は彼女のために作られたものである。
1723年にライプツィヒの聖トーマス教会の音楽監督となり、宮廷作曲家としてカトリックのミサ曲などを作曲している。1736年にザクセンの宮廷作曲家に任命された。
1750年ら死去したが、彼のことが広く知られるようになったのはここからまだ先である。当時は作曲家としてはあまり有名ではなく、オルガン演奏家として知られていたに過ぎなかった。彼の息子や弟子たちが彼の作曲した曲を細々と受け継いでいたが、1829年にメンデルスゾーンのベルリン公演でバッハが再発見されて、高く評価され、一躍有名作曲家となる。
兎に角、バッハの作曲した曲は幅広いジャンルにわたっていて、当時の殆どの音楽ジャンルを網羅していたとされる。(作曲していないのはオペラぐらいであった。)そして数も多い。特に、初期の教会カンタータだけでも約200曲に達している。当然、ミサ曲、受難曲、歌曲、オルガン曲、クラヴィーア曲、リュート曲、室内楽曲、管弦楽曲それぞれにおいて、有名な曲がある。
彼の作曲した曲はシュミーダー番号「BWV」(「バッハ作品目録」(Bach Werke Verzeichnis)に整理されているが、2007年に完成した「新バッハ全集」には1100もの作品が収められている。
有名な曲名を記し始めるときりがないので、省略するが、泪を演じた黒川芽以さんが出演している「名曲探偵アマデウス」において取り上げられたバッハの曲はファイルNo.53(=2009/12末までの放送分)まででは「ゴールトベルク変奏曲」と「無伴奏チェロ組曲」の2曲だけであるが、今後も色々と取り上げられていくことでしょう。(→最多のベートーベンでも4曲であり、52曲で35人の作曲家が取り上げられている。)
尚、1931年に発見された小惑星に、彼の名前に因んで命名されたものがあり、「バッハ(1814 Bach)」という小惑星が存在している。これは小惑星帯にあるものであり、フローラ族のサブグループであるレギニータ族に属するとされている。ドイツ・ハイデルベルクのケーニッヒシュトゥール天文台でドイツの天文学者カール・ラインムートが発見したため、同じドイツの「近代音楽の父」の名前から命名したものである。→有名人の名前はたいてい、天体の名前になっています。
「ジャーマンポテト」:ドイツ料理の一つであり、家庭料理として知られているものである。茹でたジャガイモを半月状にスライスしたものを、ベーコンやタマネギなど共に炒めた料理である。味付けには塩、胡椒が一般的であるが、家庭料理であるために、その他の調味料も適宜使われる。(当然、それ以外の野菜が加えられることもある。)→茹でたジャガイモ、ベーコン、タマネギが必須のようになっているようです。
ドイツ料理では、ジャガイモを使ったものが多いが、この料理もそんな料理の一つである。ドイツの中でもプロイセンは寒冷地であり、土地が痩せていたこともあって、食糧不足というのを何度か経験していた。そこで、荒れ地でも育てられるジャガイモの栽培に力を入れたことがその理由の一つとされている。特にフリードリヒ大王は栽培を奨励し、自らジャガイモを食べた普及させたとされている。そんなことで、家庭料理として定着したものであるため、絶対的な形が無いのも事実である。(日本でも、各家庭によって味噌汁の具が違っているのと同じである。)
日本では、酒(特にビール)の肴としても愛用されている料理の一つとしても知られている。→酒の肴の料理となると、冷めてから食べられることも多いが、酒の肴とする場合は、バターではなく、オリーブオイルを使った方が油が固まることが無く、より美味しく食べられますよ。(熱々のジャーマン・ポテトの場合はバターの方が風味が豊かで好まれますが...)
「ブンデスリーガー」:ドイツのサッカー・リーグのことである。現地語では「Fußball-Bundesliga」(フースバル・ブンデスリーガ)と言う。1部、2部画18クラブと3部20クラブの56のクラブが所属しているが、一般に「ブンデスリーガー」と言うと、その中の1部を指して言うことが多い。尚、1部と2部の運営はドイツサッカーリーグ機構であるが、3部はドイツサッカー連盟の運営である。
歴史は意外と浅く、1963年に西ドイツの全国リーグとして創設された。それ以前は各地域リーグの優勝クラブの参加によるトーナメント戦(ドイツ・サッカー選手権)が行われていて、この大会で国内チャンピオン・クラブを決定していた。また、1990-1991シーズンまでは西ドイツに所属するクラブの参加だけであったが、1990年に東西ドイツが統一されると、旧東ドイツのクラブも1991-1992シーズンから参加している。
1部の下位2チームは2部に自動降格、16位のチームと2部の3位チームがホーム・アンド・アウェーの入れ替え戦を行う。また、2部の下2チームは3部に自動降格、2部の16位のチームと3部の3位チームがホーム・アンド・アウェーの入れ替え戦を行う。(2部の上位2チームは1部に自動昇格、3部の上位2チームは2部に自動昇格する。)また、3部の下位3チームは、その下のリーグであるレギオナルリーガー(4部に相当する)に自動降格する。
1977年から1986年に、日本人の奥寺康彦が在籍していたことで知られているが、当時は日本人選手が海外でプレーすることは希であった。しかし、21世紀になってからは日本人選手も海外クラブに所属することが増えていて、2003年からは日本人選手が誰かいるという状況が続いている。(高原、稲本、大久保、小野、長谷部が所属している。)→この物語の放送当時は2004-2005シーズンが始まった時期であり、当時は高原直泰がハンブルガーSVに所属していた。
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